2010年12月20日 (月)

科学への考え方 (ネット 理想 2010年11月13日公開) 

 手塚治虫氏は医学部を卒業した医者であるが、医者にはならず、漫画家になった。彼の漫画には、神様は無駄なものをつけはしない。取っていい臓器(無用な臓器)などないと書かれていたと思われるが、彼が医者でなく漫画家を選んだのは、西洋医学に対しての不信があったからであろう。実際、手術で臓器を取り命が助かった人でも臓器を取る以前と比べ不調が現れ、臓器をとらないで治療したかったと思うであろう。東洋医学を日本に広めた大国主神はこのことをとても危惧していると思われる(東洋医学では西洋医学で病ではないとされる前段階で異常がわかり治療することができるのである。医食同源、薬食同源という言葉も東洋医学の言葉である。)。無神論者は、神など存在しないと考えるので、有神論者のように神が理性によってこの世を創り、この世には無駄なものはいっさいないなどとは考えない、無神論者は、そんなことはたわごとにすぎないと考える。私は自然が数学等高度な知性で書かれている以上、高度な理性を持つ神は必ず存在すると考えるのであるが。無神論者はこの世には神はいないのだから、この世は自然という単なる物が偶然によってできた結果にすぎない。だから、善悪など存在しない、節度を守ることも必要ない。可能な限り、科学であろうとなんだろうと自然という物を操作してよりよく変化させて使用して一度限りの人生を謳歌して生きるべきであるというものである。だから彼らは科学(もちろん科学以外の人間(他人)に対しても)に倫理は必要ないと考えるのである。例えば遺伝子操作の問題等が挙げられる。有神論者にとって、それは神への反逆であり、冒涜であるということになるであろう。ちなみに科学者のすべてが無神論者というわけではない。
 
*明恵上人は自分で自分の耳を切り取った。それは自分が人から外見で好かれるのを避けるためである。まさに精神的な美こそ悟りであるということを実践した人である。彼の行動に対して医学的に、健康的にと言っても求めることが違うのだから仕方がないが、耳を切り落としていなければもう少し長く生きていられたのではないかと私は思うのである(明恵上人は59歳で亡くなった)。東洋医学的には耳を切れば陰陽のバランスがくずれ、気・血(血液)・津液(血液以外の体液)の循環に悪影響を及ぼすであろうと考えられる。

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2010年5月25日 (火)

西洋医学の非科学性と経済的限界と倫理観の欠如  (ネット 理想 2010年4月7日公開) 

  西洋医学では体は普遍的つまり皆同じで体質(個人差)はないという過った思想から成り立っている不完全な学問である。それに対して東洋医学では普遍的つまり皆同じであるが体質(個人差)もあるという思想から成り立っている学問である。その例として以前、脳梗塞になった妊婦がたらいまわしになって亡くなった例を挙げよう。妊娠すると血栓ができやすいことは知られているが、死に到るほどひどい脳梗塞になる人とならない人がいるのが現実である。そして死に到るほどひどい脳梗塞になる人は、すでに脳梗塞が存在したと考えることが妥当である。妊娠し脳梗塞が更に悪化したと考えるのである。(またわずかな可能性であろうが、もし脳梗塞が全く存在しなくとも(これはたぶんあり得ないが)体において病が存在していたと考えるのが妥当である)。しかし西洋医学では男女とも若者は脳梗塞にならないというのが常識なので、西洋医学的にはこのような東洋医学の考えや一般的な人が考える常識的な考え方は間違いということになる。ある医者に東洋医学では年齢関係なく脳梗塞になると経験上証明されている(実際、西洋医学でも若年性の脳梗塞は見つかっている)、それなのになぜ西洋医学では若年性の脳梗塞はないと検査もしないで決めつけるのかと尋ねたら、年齢関係なくMRI等の検査を簡単にしたら財政が破綻してしまう、だから若年性の脳梗塞は存在しないと断言するらしい。若者の脳梗塞は現在、統計上はわずかなのでないに等しいという論理なのだろう。しかし財政が破綻してしまうからと簡単に若年性の脳梗塞の検査をしない状態つまり多くの若者の脳の状態の検査結果も集まっていないのにわずかなデータで統計を出したところでそんなものに意味はない。全く医者の無責任さと倫理観のなさにはあきれてしまう(最終的には厚生労働省に働く医者が決めているのであろう、したがって厚生労働省の職員の能力のなさ、倫理観のなさと非難されても仕方あるまい。)。西洋医学(今のような西洋近代医学は四百年も歴史はない、日本で公的な医療となって百五十年も経っていない。)以上の何千年(紀元前から存在する。)という歴史のある東洋医学では若年性の脳梗塞が存在することが証明されている。東洋医学の診断を簡単に言うと陰陽虚実で考えられる。陰とは寒、体液、陽とは熱、虚は不足、実は過剰のことで、熱の過剰とか熱の不足、寒の過剰、寒の不足かその症状によって治療するのである。例えば陰虚火旺と言えば体液不足で熱の方が多くなりバランスがくずれてしまっている状態のことである。人それぞれ(体質や年齢等)に応じて治療するのが中国医学である(日本の東洋医学は明治以降公的な医療としては認められなくなり、江戸時代で止まっており、進歩・修正が不十分だと考えるので東洋医学の最先端の中国医学で説明する。日本は明治以降東洋医学を公の医療と認められなくなったため西洋医学的に分析・解釈することを重視し、東洋医学単独の研究は不十分な状態であるため)。それに対して西洋医学では、病気を引き起こすのはすべて病原体(細菌、ウィルス等)のためと考え、陰陽虚実のことは全く考えないで皆同じやり方で治療する。西洋医学では年齢は考慮するが、体質は考慮しない。以上のように西洋医学は不完全な学問である。西洋医学を妄信している患者、そして妄信して治療を施している当事者の医者、そして西洋医学では治らないなら宗教の力で治ると言われていっこうに治らないのに宗教に入り続けている人には東洋医学の治療について考慮して欲しい(ただしよく勉強もしないで漢方薬を西洋薬同様の考え方で無責任に出している倫理観のない医者はたくさんいるのが現実でもある。)。それから私は政治家にいいたい、機械は万能ではないし、しかも機械便りの西洋医学では、治療的にも金銭的(経済的)にも限界があるようなので東洋医学を復活させたらどうか。いやそれより西洋医学は明治以降、生・死を決める重大なことを不完全な学問でありながら一人で担ってきたために権力を握り、幅をきかせ過ぎた。己の限界を認識せず、倫理が無くなった。つまり傲慢になった。これからはこの傲慢さを消させなければならない。それが国民のためである。それには明治から公的な医療の地位を奪われた東洋医学(免許制にして東洋医学の平均レベルを維持させる。今のように不勉強な西洋医学の医師や薬剤師が漢方薬を保険で出せないようにする。)を復活させるべきであろう。中国では中国医学、韓国では韓医学があるように日本医学を創設して西洋医学に対抗させるべきである。ちなみに西洋医学の診断には基本的に機械は必要ないので金もほとんどかからず、西洋医学のように国民を無視し西洋医学の保身のために若年性脳梗塞は存在しないなどと組織的にうそをつく必要はない。
  それからこれから子どもを作ろうと思っている女性の方には妊娠前には、東洋医学の診断を受けることをお薦めする。血栓のある人は血栓を取ることをお薦めする。その他、東洋医学の治療により流産して、水子の霊にたたられたり、自分自身が死ぬことや未熟児・奇形児を産むことを避けられる可能性も高いと思われる。そうすると宗教家に頼る必要もなくなる。西洋医学では中絶という水子を生じさせる罰当たりなことを堂々としているが。それから不妊症がなくなる確率も上がる。
  日本に医薬を広めた政治家でもあり、哲学者でもあり、宗教家でもあり、医学者、薬学者でもあった日本のかつての国主、大国主神と少名び古那神は今の日本を見てどう思っているであろうか?嘆き悲しんでいると私は思う。

*なぜ医者や官僚等高学歴になればなるほど倫理観がないのかを知りたい方はこちらをご覧ください。それからもう一つ彼らに倫理観がない理由を挙げるとすれば哲学者のように既存の体制(医学界、官僚の省庁)に対して疑うことをしないからではないか。いや疑い、真理であるとわかり改革しようとしても既存の体制と異なる意見、行動を取ると出世できないという官僚主義、権威主義という間違った思想から出来ている体制のために倫理観を失い真理を探究できず、改革できないのではないか。つまり倫理観は必要ないというのが医学界、行政機関の体制なのであろう。つまり医学界や行政には倫理は必要ないという思想のもとに医学や行政は行われているのであろう。これを改めさせるには政治主導で行政のあり方(行政を行う上での思想や行動等)を変えなければならないだろう。

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2010年5月 7日 (金)

日本人とは何者か?(現代日本人の宗教観を考える。)     (ネット 理想 2009年4月7日公開)

  現在の日本では結婚はキリスト教で、葬式は仏教でというのが一般的であろう。しかしイエス・キリストは結婚をしなかったし、そのため原始キリスト教では結婚など意味のないものと考えられていた。そして仏教の葬式だが、釈迦仏教では葬式はしない。実際、日本の奈良仏教では葬式はしない、しかし奈良仏教の僧は死ねば葬式を行っている仏教宗派に葬式を頼むようである。つまり仏教は日本に入ってきて神道の影響を受けて葬式を行うようになったのである。神仏習合といわれるものである。そして神仏習合は葬式だけではない、お盆、お彼岸、年忌も仏教が日本に来て神道から取り入れたものである。神道には先祖供養や怨霊鎮魂というものがあり、仏教が日本に入ってから神道の影響を受けて行うようになったのである。
  仏教徒の中には、葬式仏教、祈祷仏教といって葬式や祈祷等神道の神事を行う日本の仏教宗派を本当の仏教(釈迦仏教)ではないと馬鹿にする向きがあるが、日本の歴史上、経験上、怨霊のたたり、先祖を供養してないための子孫へのたたりが数多く存在したため、神道が生まれたのである。葬式仏教、祈祷仏教といって葬式や祈祷等神道の行事を行う日本の仏教宗派を本当の仏教(釈迦仏教)ではないと馬鹿にする言動を行う者には言いたい、それなら肉食妻帯は釈迦は否定しているがあなたがたは行っているのかと?ちなみにここで私がいう神道は、記紀神道つまり天皇によって作られたものではなくそれ以前の神道、私はそれは大国主によって作られた(体系化された)と考える。そしてその大国主神道とでも言おうものは、その神道は医薬を日本全国に広めた大国主神(1)に作られたので節度を求めたが肉食妻帯を許したあるいは肯定したであろうと推測する(が正確な真相はわからない)。
  ところで天皇家はなぜ仏教を神道化したのだろうか?つまり仏教に先祖供養や怨霊鎮魂を取り入れたのだろうか?仏教は仏教のまま、神道は神道のままでよかったのではないか、詳しい経緯は省略するが、ある時期から以前の日本の国主、大国主によってつくられた(体系化された)日本独自の神道(2)を使い続けていては天皇家の完全なる(永久的な)日本の支配は出来ないと考え、天皇家が独自の宗教が必要であると考えたと見るのが妥当ではないか。そして記紀をつくり神道の内容や歴史の内容を変え、仏教を神道化して定着させたのである。逆にいえば日本独自の神道や大国主神の存在をなるべく消そうとしたと言えるのである。




(1)大国主神には、大物主神、大己貴神(大貴神)、八千矛神等いくつもの名前がある。

(2)『日本書紀』の一書には、日本の支配は天つ神(天皇の一族)が行うが、神事は大国主に任せるということが書かれている。大国主から天つ神(天皇の一族)への国譲りはなかったであろう。なぜなら諏訪大社について考えると一般的に言われているように国譲りに際して古事記に書かれているような建御名方神と建御雷神の戦いは実在しなかったと考えるのが妥当だからだ。ちなみに事代主神と建御名方神は大国主の息子であることは真実であろう(日本書紀では建御名方神は出てこない)。 

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2010年5月 5日 (水)

今さらながら『武士道』ブームを考えてみる。    (ネット 理想 2009年10月27日公開)  

少し前(何年か前)『武士道』という本がブームになった。江戸時代は、武士の道徳は理性的な儒教で、一般の民衆、農民は儒教では難しいので仏教の道徳ということになった(本当の仏教は理性的である)。
  ところで話は変わるが、出雲阿国は歌舞伎の祖といわれる人(女性)で出雲大社の巫女で出雲大社修造の勧進のために各地で阿国歌舞伎の興行をしたといわれている。しかし、その後、出雲阿国の偽者が現れたり、出雲阿国の真似をした女歌舞伎というものが現れ、舞台で裸になったり、売春したり等風紀を乱した。その結果、江戸時代は、女優は禁止された。好きでもない異性との接触は全くもって卑しいものである。この頃、西洋でも同様であった。キリスト教(のカトリック)では、演劇を不敬虔、不道徳、貞潔の敵、劇場を淫欲の学校等といわれ、俳優(特に女優は)は卑しい存在とされ人間扱いされず、結婚も埋葬も許されなかった。
  しかしその後、西洋は近代化、それに合わせようと明治から現在までエリートと呼ばれる詰め込み教育だけが得意な人間によって、非論理的な西洋の科学万能主義を無批判に妄信し受け入れた結果、江戸時代の価値観は一変、日本も西洋同様に神も仏もいなくなってしまった。その結果、女優の復帰はもちろんのこと、裸になったり、好きでもない異性と抱き合ったり、キスしたり、挙句の果てには売春しているのが当然のようになった。現代版、女歌舞伎が復活したのである。一般的に俳優は統合失調症(精神分裂症)になりやすいと思われるが、それは以上のような反倫理的なことを普通に行なううちに善悪の基準がなくなるからであろう。そして非論理的な、反理性的な人間となっていくのであろう。そこには神仏に対する恐れなどないのだろう。
  しかしこれは俳優に限ったことではない、理性を重んじない人間は、時代がそうだから、周りがそうだからと、神や仏を信じなくなり、道徳を獲得しようとしなくなり、その結果、統合失調症(精神分裂症)気味になるはずである。『武士道』は主に理性的な儒教(その他、仏教、神道)からなるが、そういう理性的というのも道徳を得たいというのとは別の『武士道』ブームの一つの理由ではないのだろうか?

 
* 私は結婚してはならないとか結婚しなければならないとは言わない、いや言うべきでないと思っている。それは本人が決めることだからだ。ただ神仏や天罰、因果応報など恐れず、これを読んでも卑しいことをしたとしても俳優になりたいと思っている人にはもう少し言っておこう。特に女性(女優になりたいと思っている方には)には。なぜなら男性(結婚しようと思うならば)はこういうことに女性より敏感だからだ。きっと許せないであろう。こういう状況では結婚に難をきたすであろうことの想像は難しくない。それを因果応報とか天罰と言うこともできる(この世で廻るかは必ずしもわからないが、その場合はあの世か来世で廻るのではないかと思っている)。それから俳優にこのような卑しいことをさせる人にも天罰や因果は廻るのではないだろうかと思っている(この世で廻るかは必ずしもわからないが、その場合はあの世か来世で廻るのではないかと思っている)。  
 
* ちなみに性行為をしない、ただのキスだけでもヒトパピローマウィルスに感染する。
 
* 芸術について興味がある方はこちらもご覧ください。

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2009年12月 2日 (水)

 『健康問答』(五木寛之・帯津良一 著 平凡社 2007年)という本を読んで   (ネット 理想 2007年11月9日公開)  

  哲学者は、一般的に科学(自然科学)ではある一面の真理(科学という人間が創った文化内での真理)は、導き出せてもすべての真理は導き出せないと考える。しかしここで、私は、哲学者は、学者の中で最も偉いと言っているのではない。哲学者にもいろいろな人がいる。哲学者の中にも科学を万能だと考えている人もいるだろう。同様に科学者の中にも科学を万能だと考えている人もいるだろうし、科学を万能でないと考えている科学者もいるだろう。本職の哲学者から見れば安易といわれるかもしれないが、真理を愛する者は皆、哲学者であると私は考える。この『健康問答』の著者の帯津良一氏(臨床家 臨床経験からの発言)は科学を万能視しない科学者(医者、日本では西洋医学の医師免許を持っていないと医者とは言えない。)であり、そして哲学者(真理を愛するという意味で)と言ってよいと思う。そしてもう一人の著者の五木寛之氏は現在、私見だが(五木氏の最近の書かれている本から考えると)、哲学者あるいは宗教家といってもいい人だと思う。ところでこの本は、西洋医学の矛盾(不完全さ)を明らかにしようという企画で書かれたものである。おもしろい。例えば今話題のメタボリックシンドロームはお節介だとか、長生きである職業は何か等西洋医学の矛盾(不完全さ)をいろいろ述べている。いろいろ教えられた。お薦めである。読んで損はないと思う。科学(西洋医学も含む)を万能視している人は特に。
  共感したところを書けば、不完全なくせに(治せない病がまだまだたくさんあるのに)西洋医学は科学的な根拠が乏しい(目に見えないということ)として代替療法(西洋医学以外の医療 インドのアーユル・ヴェーダ医学、中国医学、ホメオパシー等)を斥けようとし、代替療法側(非西洋医学)は、西洋医学に対抗するためにいたずらに科学的な根拠を求めて無駄なエネルギーを使っていると、帯津氏は、述べているところだ。まさに西洋的な支配・被支配関係(日本も同様である ここでは科学が支配し代替療法は支配されているつまり科学に一元化する、西洋に一元化する。)というくだらない争いをしているのである。私も帯津氏同様こんなくだらない争いをせずに臨床実績は十分である代替療法と西洋医学の統合された新しい体系の医学である統合医学が欧米のように日本でも為されることを願う(西洋でも非西洋を受け入れざるを得なくなったのである。)。いつかは必ずそうなると帯津氏は述べている。私もそう思う。そうすれば現在、西洋医学で治らない病が治るようになるだろう。なによりまず患者のことを考えるべきだろう。ところで帯津氏は、統合医学の更に先にはホリスティック(全人間的)医学が生まれると述べている。ホリスティック(全人間的)医学を、私なりに解釈して更に私なりの意見を加えて述べさせてもらえば、ホリスティック医学は、哲学的医学、医学と哲学を統合するものであろう。ここでの哲学とは、方法論(科学的認識つまり西洋医学だけが真理だとかいやそれだけではないというように認識の問題を扱う認識論)の問題と、人間が存在するとはどういうことか?(例えば、人間の存在において個性つまり体質を考慮しない現在の西洋医学が本当に真理に適ったものといえるのか?体質が違い病気の原因も様々なのに皆同じ治療法(投薬、手術)を用いるということは、問題あるだろう。つまり不必要な投薬、不必要な手術ということが当然行なわれているということである。だから医者が患者の病気を増やしているとか医者が患者の寿命を縮めていると言われるがそれは結構正しいのである。)、生きるとは何か?、病とは何か?、老いるとは何か?、死とは何か?等形而上学(存在論)の問題と倫理(倫理に則った医療とはどういうものでどうあるべきかという問題 例えば脳死は本当に死なのか、臓器移植は、本当に倫理的に問題はないのか、臓器移植以外の治療方法は本当にないのか等)のことである。そしてこの認識論、形而上学(存在論)、倫理は個別の問題ではなくそれぞれがつながっていて切り離せないものである。

* 私がここで『健康問答』という本について述べているとはいえ、私の文章を含め他人の文章をよく考えもせずに受け入れないでください。

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2009年11月18日 (水)

科学の目は、万能ではない! 感性(実際に飲んだ結果)と知性(機械で見た結果)どちらを信じますか?  (ネット 理想 2007年9月30日公開)  

 経験つまり感性による実験重視(つまり実際に人間が飲んだ結果)の中国医学では桂皮(ケイヒ シナモンのこと ケイの幹皮)と桂枝(ケイシ ケイの若枝または樹皮)は効果がだいぶ違うとされている。しかし機械(顕微鏡だろう)で見るとあまり差がないとされ、科学万能主義の日本ではまあ仕方ないと言っていいのかもしれないが日本の某有名漢方薬メーカーでは、桂枝~という薬(例えば桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん))等桂枝が入っている薬には、桂枝でなく桂皮が使われている。中国から来た中国医学の医師がある病気に対して桂枝茯苓丸を与えたがよくならなかったというのを本で読んだことがあるが、それはその中医師は日本の桂枝茯苓丸は桂枝ではなく、桂皮が使われていることを知らなかったからではないだろうか?(しかし日本人は、中国人に比べて胃腸が弱いので桂枝だと胃腸に負担がかかる可能性があるが、桂枝を桂皮にしてしまうと病気によっては問題である。)。したがって中国医学の薬を基本にして日本人にあった薬を新たに創るべきであろう。)。ところで白朮(びゃくじゅつ)と蒼朮(そうじゅつ)の効果も同様である。中国医学では両方とも温性とされているが、白朮は胃腸の気(=熱)を増やす効果があるが、蒼朮には胃腸を温めるが、胃腸の気(=熱)を増やす効果はなく逆に気を消耗させるので胃腸の気(=熱)が不足している人には、基本的に使ってはならないと考えるのだが、日本の某有名漢方薬メーカーでは科学的には、ほとんど差がないとされており、中国で白朮が使われている薬に蒼朮が使われているのが現状である。加味逍遥散、当帰芍薬散、補中益気湯、六君子湯等主要な漢方薬でこのことが行われている。ところで化学的に作られた薬つまり西洋医学の薬が不完全だと言われるのは、体を温める効果のあるものを作れないからである。だから自然の生薬である漢方薬を使って治すのが自然であると言われるのである。とはいえ、私は西洋医学を否定しない。西洋医学も中国医学も両方必要だと思っている。ただ経験より機械の目を優先する考え方は真理とは言えないだろう。科学は、万能ではない。科学的に証明されたという言葉を少しも疑わず妄信してはならない。そしてそれは特に医者に言いたいのである。日本の医者は一般的に、漢方薬はもちろんのこと西洋薬の歴史や精製の技術等はほとんど知らないで(あるいは忘れてしまって)、平気で処方しているのが現実である。そのため以上のような不完全な漢方薬に対して無知ゆえに全く疑わず妄信してそれを患者に飲ませているのが現状である(もちろんそうでないちゃんとした医者もいるであろうが)。自分では悪いとはわかっていないのかもしれないがそれは罪であるということは言うまでもないことである。ちなみに患者に対して無責任な医者は中国医学の診断法(望診(見て観察)・聞診(聴覚・臭覚で患者を観察)・問診(患者に質問して診察する)・切診(手で触れて診察する)の4つ、そのため中国医学の診断法は四診(ししん)という。)を用いず(つまり中国医学を十分に勉強せずに、ちなみに日本漢方(日本の漢方医学)というものもあるが日本漢方は中国医学に比べ、体系性(論理性)、臨床経験数等多くの点で不十分といわざるをえない。)に西洋医学の診断法(つまり病名治療、この漢方薬はこの病名に効くと書いてあるから、これが効かなかったらまた違う漢方薬を出せばいいいやという安易な診断)で漢方薬を処方しているのでそういう医者には注意すべきである。中国医学を勉強している人なら、当然知っているので白朮を使うべきところに蒼朮を使っている漢方薬は使わないだろう。しかし日本の医者は漢方について勉強していない無責任な医者がほとんどなのではないだろうか。それでは、本来効き、治るものも効かず、治らないどころか副作用を得る可能性がある。以前、小柴胡湯という薬によって患者が死んだことがあったが、それも医者の無知ゆえであろう。もし今の医者が中国医学を真面目に勉強して正確な知識を得れば、西洋医学ではならない病も治るであろう。例えば今問題になっているC型肝炎(薬害で今マスコミで話題である)とか肝硬変等である(必要なら西洋医学との併用をすればよい(あくまで必要ならである。)しかし根治治療は漢方薬でしかできない。)。


*それから最近の薬害の例を挙げれば、肺ガン治療薬イレッサの副作用による大量死亡被害、インフルエンザ治療薬タミフルによる飛び降り死、血液製剤フィブリノゲンによるC型肝炎の発生がある。


*2007年9月24日に公開したものに一部増補したものです。また10月30日に一部改訂しました。

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2009年11月 8日 (日)

スポーツマンシップについて。(ネット 理想 2006年8月10日公開)  

 スポーツマンシップに則ってスポーツを行なうべきだといわれる。それでは、スポーツマンシップとは何かといえば、それはモラルに則ってスポーツをすることだろう。スポーツマンシップに反する行為として最近の例は、ワールドカップの決勝戦である選手が、暴言を吐いてある選手を挑発し、それに対してある選手が頭突きをしたことがあったがこれはサッカー史に残る大きな汚点である(2人は共にFIFAから処分を受けた。)。一般的に権威あるスポーツほどスポーツマンシップに則ってスポーツが行なわれまたそのことが求められる(権威あるスポーツになるにはいくつかの条件があるだろうが、その一つにスポーツマンシップに則ってスポーツを行なうことが含まれるであろう。)。
  しかしスポーツマンシップを求められる権威あるスポーツでも必ずしもスポーツマンシップが守られないことがある。それは上の選手のように個人的な資質(つまり個人の人間性の未熟さ)が原因の場合もあるが、それだけではない場合もある。例えばプロ野球(日本やアメリカだけでなくプロ野球があるところではどこでもあるのではないか?)がそうで、審判がたとえ間違った判定を下してもそれに従わざるを得ず(例え抗議しても結局判定は変えらない、とはいえ納得できないから審判を非難する暴言の一つでも吐きたくなるが、吐けば退場させられる。)、そのため選手は審判の判断は間違っていると訴えるために物に当たる等スポーツマンシップに反する行為をしてしまう場合がある。物に当たる行為はスポーツマンシップに反しそれは悪いことであるのは事実であるが、選手の気持ちもわからないでもない。したがってそうならないようにするにはスポーツマンシップが守られるような(スポーツマンシップに則った)環境がつくられることが必要である。そうでなければスポーツマンシップを求めたところで実現せず、ただそのスポーツの権威や品位を貶めるだけである。

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2009年10月29日 (木)

野球を陰陽論で考える。(ネット 理想 2006年7月27日公開)  

ピッチャーは陽(攻め)、バッターは陰であり、陽である(バッターは、ピッチャーの投げた球を受けてそれを打つので受身であり攻撃である。素人の私の意見だが、ボールに逆らわないで打つ、つまりボールに合わせて打つというのがいいのではないか?)。したがってピッチャーにとって大事なことは、冷静さ等陰気も当然必要だが、基本は陽気(攻め(の姿勢)、積極性、強気等)で投げるということである。だからピッチャーにとっての理想とは、バッターを振り回す(ぐらいの)陽気の投球ではないだろうか?(当然、振り回すには陽気(力)だけでなく、陰気(変化球やバッターの気持ちを読んでわざとタイミングをずらすように投げる)等の技)も必要だが、最終的に投げる時に大事なことは攻めの姿勢、積極性、強気である。) ピッチャーはバッター以上に陽気が必要である。その証拠としてピッチャーとバッターを比べて、結果が出た後、行動として表れやすいのは、明らかにピッチャーである。それだけ、ピッチャーは、通常の陽気が強いので結果がでると自然と強い感情が生まれ、行動に表さざるを得ないということなのであろう。
  ところでこれを実践する前提条件は、集中(体全身、つまり心も体も)である。集中なしにこれらを実践したところで結果は出ないだろう。

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2006年7月30日 (日)

スポーツを陰陽論で考える②  ワールドカップ ブラジル戦を見て。(ネット 理想 2006年6月24日公開)

 前半、日本人選手は、陽気が多少出過ぎている(陽気を多少使いすぎている)ように感じて最後まで持つのかと心配していた。しかし玉田選手の心のこもった、力強い(陽気が主で陰気の柔軟性もある)先制ゴールが決まったのを見て、いけるのではと思ったが、前半ロスタイムで同点に追いつかれてしまった。その後、日本人選手の状態を見ると多くの日本人選手は心が折れたように見えた。ブラジルのヘディングのパスからヘディングシュート、これは、まさに力でなく技あり(陽気もあるが陰気の多い 柔が剛に勝った)のゴールであったのではないか? テレビでボールを見て周りを見ていなかったのではというような内容を述べていた解説者がいたが、ディフェンダーは陽気が強すぎて冷静さ(陰気)を欠いていたのかもしれない。
 そして後半、前半の陽気の使いすぎのせいで体力がなくなったのもあったであろうが、心が折れてしまったのであろう、陽気の力がブラジルの選手と比べて断然弱い。前半の陽気はどこへいったのだろうか。あれでは、3点入れられてしまうのも仕方がない。前半の陽気が後半も出せていたならば勝てていたかもしれない。
 過度に肉体を使うスポーツ(適度なスポーツな別)は、健康に良くないと言われるが、スポーツは動的な行為であり、普通の行為以上に一般的に陽気も陰気も必要であり、そのためには、普通の人と比べて心に過度のやる気(陽気)と冷静さ(陰気)を持たなければならず(集中力が研ぎ澄まされる)、そうしないと体も過度に動かず、結果も出ないつまり勝てないのではないか?。ただ心に関して言えば、スポーツだけでなく全てにおいてそうだが心の気(陰気も陽気も)がなくなれば、全身を統率する力を失うのでなにもできなくなるのである。ブラジル戦は、気持ちの大切さ、心の力(心の強さ)の重要性を認識した一戦であった。ところで日本代表に愛はあったのだろうか?サポーターへの愛、選手同士の愛、サッカーへの愛等である。愛は心で感じるもの、つまり愛は心の気を高めてくれる。心に強い愛があればあるほど心の陽気(がんばろうとする気持ち)も心の陰気(このままではよくない、こうしよう、こう変えよう等の冷静さ)も強くなるのである。ブラジルは強いもうダメだではなく、サポーターのため、みんな(選手同士)のため、サッカーを楽しんでやろう(愛の感情とはお互いにより快適な条件のもとに共生しようと思う感情)等、それにはもっといいサッカーをしなければならない、そしてしよう、それが愛の感情で生きることである。体が疲れていたり、自信を失って気持ちが弱くなった時、それを克服する方法は愛の感情で生きる以外にない。当然、気合や気持ちで体力は回復されないが、気持ちがあればある程度は体を動かすことができるということだ。
  したがってスポーツ選手がスポーツを行なう時の理想の状態は、普通の人と比べて強い愛の感情(冷静さ(その場の空気を読んだり、他人の気持ちを感じとることができる等(感じとって臨機応変に対応する 例えば相手の気持ちを感じとってわざとタイミングをずらして攻撃する等)受身の能力)を含む愛の感情 つまり心の陽気と心の陰気が共に普通の人に比べて強い状態)で生きることではないだろうか? スポーツ選手のように過度に肉体を使えば、普通の人に比べて陰気と陽気を多く消耗するので健康には良くないが(その点は違うが)、それでもスポーツをしている時でも普通の人(気の消耗度は異なるが)同様、愛の感情で生きることつまり太極の心理状態と清心寡欲の生き方(過度の生き方ではあるが)は、可能であろう。スポーツをする人には知性で知ることも重要だが、感性で理解する方が重要である。それには、ただ愛の感情で生きればいいのである(普通の人より陰気も陽気も多く使っている状態の愛の感情であるが)。それから前にも述べたが、愛の感情で生きれば、ほとんど感情を表情(=ここでは顔の動き)に表わさなくても大丈夫な状態である。結果を出している選手は、スポーツをしている最中は顔の表情(の動き)はほとんどないと思われる。なぜならそれだけ集中しているからである(集中には陽気と陰気のバランスが大事で陰陽が共生している状態)。そして結果が出れば自然と感情が生まれ、時に自然と行動として表れるであろう(集中するとは、普通の人が生きる愛の感情より強い愛の感情で生きるとはいえ愛の感情で生きることである。したがって結果がよかろうが悪かろうが、そしてどのような感情が生じようが、道徳に反する行動(体でうれしさやくやしさ、落胆やガッツポーズ等を表わすのは問題はない。)はしないはずである。もししてしまうのであれば、それは集中できていないつまり愛の感情で生きていないということである。)。ところでひらめいたのだが、集中とは、体(心の統率によって、心を中心に)の中に(スポーツなら体全身に)気(陰気と陽気の両方とも)を集めることなのではないだろうか?(そして無駄な気を外へ漏らさない。それゆえに表情の動きがほとんどないのではないか? )。そしてこの集中を意識してわざわざつくるのではなく、無意識に、簡単にできるようになっていなければ試合では、結果は得られないのではないだろうか?そして集中できているから臨機応変が可能なのであって集中していなければそれは不可能であろう。集中しているからボールの動き、周囲の状況(相手や仲間の動き等)、また攻撃時、守備時等に応じて必要な陰と陽の強さを変えることができるのである。
  だから集中を基本として、スポーツで大事なことは、普通の人同様、臨機応変である。他(相手等)の状況を(スポーツの場合は瞬時に)理解し、積極性を出したり、冷静になったりはもちろんのこと、その時に必要な力の強さで対応する、だから時には、集中して体の中に集めた気を一気に放出する必要がある場合もあるということだ。
  ところで心と体も陰陽に分られる。だから(特にスポーツは)心と体のバランスも大事である。ただ忘れてはならないことは、心が体を統率するということである。したがってスポーツでは、心(心の陰陽のバランス)と体(体の陰陽のバランス)のバランスを忘れてはならない。
  それからここに書いていることは概略であるので、細かい内容については、あまり書かれていない。そのため知りたいことは得られないかもしれない、あるいはここに書いてあることでここは違うのではないかと思うことがあるかもしれないが(実際、間違っていることがあるかもしれないが)、陰陽(あるいは陰と陽の共生)で考えれば全て答えは得られるはずである。だからそのような場合は、自ら考えて真理を見つけてください。

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2006年6月29日 (木)

スポーツを陰陽論で考える。(ネット 理想 2006年6月20日公開)

 体に力が入りすぎて固すぎるのは陽気(熱)の過剰で陰気の不足、逆に体に力がなくて緊張感がない(柔らかすぎな)のは、陰気が強すぎ、陽気の不足の状態である。体が固すぎず、柔らかすぎずつまり力が入りながらも柔軟性もある状態が、理想であろう。スポーツ選手を陰陽の観点でみると面白い。
 プロ野球選手、プロサッカー選手の何人か(日本人)を見るとまさに理想と思われる人がいる。外国人で言えばサッカーのロナウジーニョ選手等である。細かなボールさばき、あれは陰気がなければとてもできないことである。
 それから、陽は攻撃、陰は守備に適していると言われる。例えば、野球のデッドボールで体に力を入れたまま(つまり陽の状態)デッドボールを受けると力が逃げないので衝撃は強い。だから骨が折れやすい。しかしデッドボールを体から力を抜き(陰の状態)、よけたりすれば、力が逃げるので、受ける衝撃は弱い。だから骨は折れにくくなる。
  ところでスポーツは一般的に動的な行為なので、スポーツをしていない人(していない状態)より陽気と陰気を必要とする。しかし野球のように一瞬一瞬に心を込められるスポーツとサッカーのように持久力が求められるスポーツ(またサッカーでも中盤とフォワード、ゴールキーパ)では、通常において必要な陽気と陰気のバランスは異なるであろう。

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«改めて三大政党制の必要性を実感。(ネット 理想 2006年3月29日公開)